技術の進化とに人間の弱体:その2 ~平成の時代を振り返る~
親愛なる皆様
おはようございます。
1989年(平成元年)、私が務めていた運送会社では、大手食品
問屋からの業務委託で配送業務と倉庫業務を行なっていた。
私は若くして、その事業所の所長として任命された、といえば
聞こえは良いが・・・ 倉庫内は混乱を極め劣悪な環境の中で
ありました。
味噌、醤油、飲料、調味料・・・ありとあらゆる加工食品が
倉庫から溢れかえり、通路にも倉庫の外の軒下にも積み上げ
られている。そんな状態の所へ更に新たな商品が入荷してくる、足の踏み場もなく、
どこに何が置いてあるかも分からないような倉庫の中では、商品を出荷する為に
リフトマンやピッキング(出荷)スタッフが網の目を縫うようにして狭い通路を
行き交うという危険な状態。商品事故も車両事故も多発する、深夜になっても出荷業務、
積込み業務は延々と続き、ドライバーはキレだすわ、商品を破損しても放りっぱなしだわ、
案の定長続きはせず、入社しては辞めていく社員は多く、常に人員不足で、
応募面接に来たらどんな輩でも「お願いだから入社して下さい、すぐ来てください、
明日から来てください」というような面接を行なっていた。
良くなるわけがない、悪循環が続いた。
フラフラになりながら、深夜まで過酷な労働をし、気がつけば
夜が明けることもままあった、自自身もよく続いたものだと今
思えば我ながら感心しますし、何よりも当時は新婚だったので、
奥さんがよく辛抱してくれたもんだと、感謝しかありません。
当時、世はバブル。
バブルというと、華やかで派手でリッチ(既に死語?)な生活と
いう印象だが、バブル時代の舞台裏、特に私は物流マンですから、
どこの物流現場を見ても大なり小なり同じような状況、要は物が溢れ、
華やかで派手でリッチな生活の裏ではそんな現場が存在していたということ、
正しく光と陰の如くであります。
でも、わたし的には、バブルの裏で劣悪な環境の中、過酷な仕事をしていたことが
明らかにその後の糧になった。数年間そんな状態が続いたが、辞めずに続けたお陰で、
その後は次々に新たな事業へのチャレンジ、ステップアップができた。
要はバブル崩壊と同時に、華やかで派手でリッチな暮らしをしていた人達の多くは
正に崩壊していったが、私の場合はバブル時代の方が過酷で今にも体や家庭が
崩壊しそうな状態だったので、バブル崩壊後の方が有り難い暮らしが待っていたというわけだ。
知人友人の中には、当時派手な遊び方、贅沢な振る舞いをしていた人もいた。
でも、その多くが消えた。だから、私は実に運がいい。
当時サラリーマンとして大好きな社長の元で必死に働き、
過酷な状況にあっても社長にいいところを見せたい、喜んでもらいたいという
一心で働いていた。もし、あの当時、独立して経営者になっていたとしたら、
私のようなお調子者はバブリー君まっしぐらで派手に遊んで、
バブル崩壊と共に消えていった中の一人になっていたと思います。
つづく。
さぁ今日は、午前中アドバイザー協議会、
そして、午後はヤマネット全国大会であります。
気合いを入れて臨みます。
今日も一日良い日に致します。
物流応援され団長・山田 押忍!